|
びよら奏者 菊田秋一 あまりにも有名なこの交響曲の聴きどころを書くことがこれほど難しいとは思いもよりませんでした。というのは、あらゆることが既にどこかで書かれているからです。今までに私が書いた聴きどころが創意に溢れた斬新なものだったとはとても言えませんが、このチョー有名な作品を前に、私は一体何が書けるのでしょうか。何を書いても二番煎じ、いや、出がらしもいいところ・・・。私はただ何も書かずに良質な素晴らしいサイトを紹介するのが正解なのかも知れません。いえ、「知れません」ではなく、そうなのです。しかし、それではjapanphil-21.com名物(名物なのか!?)、「演奏会の聴きどころ」の名が泣きます(泣かないかも・・・)。そういう訳で、恥を忍びながら、《ジュピター》の聴きどころを書くことにしました。モーツァルトの交響曲第41番《ジュピター》、これを、ホルストの《惑星》にある《ジュピター》と同じだと思っている人はいませんよね。この交響曲に冠された《ジュピター》とは、もちろん「木星」という意味ではなく、ローマ神話に出てくるユピテルの英語名です。ユピテルとは全能の主神で、天空・正義・権力・雷光を司るとされています。このお方はギリシャ神話ではゼウスと呼ばれています。 稀に同じ猫が2軒の家で飼われていることがあります(しかもそれは猫の意思であり、飼い主同士の了解事項ではないのです!)。こちらでは「タマ」、あちらでは「ミケ」というように、飼い主はそれぞれ自分がつけた呼び名で呼びます。ジュピターとゼウスとの関係は、ま、そんなもんです。ゼウスの由来をさらに求めていくとインドへたどり着きます。インドに「デヴァ(Deva)」という方がいらっしゃって、どうもこのお方が大本のようです。デヴァさんは東にも伝わりました。それが「天」です。今では空間を示す言葉(天にまします我らが神よ、という風に)になっていますが、昔は神さま自体のことでした。帝釈天とか毘沙門天とか、この天は神さまを示します。さしずめジュピターは道教の玉皇上帝にあたります。ですから、中国ではこのシンフォニーのことを「玉皇上帝」と呼んでいます。ウソです。 さてこの《ジュピター》というタイトルですが、モーツァルトが付けた訳ではありません。当時のヴァイオリン奏者でプロデューサーでもあったザロモンという人が、このシンフォニーがあまりに素晴らしいのでそう名付けたということになっています。それが真実かどうなのかは追及しませんが、この説が巷の主流です。ザロモンという人はハイドンをイギリスに招いたことでも有名で、ハイドンの最後期の交響曲はザロモンセットと呼ばれています。 モーツァルトは最後の3曲の交響曲を予約演奏会のために作曲しました。予約演奏会というのは、今の定期演奏会の原型のようなシステムです。予め名簿を回して聴きたい人を募り、ある程度、聴衆の数が確保できたところで演奏会を開催する、そういうのが予約演奏会です。モーツァルトはこの3曲をわずか2か月ほどで作曲しました。《ジュピター》はたった2週間で作られています。しかも交響曲の作曲に没頭していたのかといえばそうではなく、たくさんの作品を同時進行で作っているのです。構想を練るとか苦節30年とかとは、モーツァルトにとって無縁の世界なのです。 完璧な響きが突然頭の中に降りてくるのだそうです。それを楽譜に書き写すのが、いわばモーツァルトに仕事でした。 理由はわかりませんが、当時のモーツァルトの人気は落ち目でした。どうも、作曲はしたが人数が集まらず、予約演奏会は開かれなかったようです。これが音楽の都、ウィーンでの話です。私たちも現代作品を聴いたり演奏したりしても、「何これ?、こんな曲にこんなに経費を使ってていいの?」とは安易に言わないほうがいいかも知れません。100年後、「日本フィルシリーズ」は、「傑作の森」と呼ばれているかも知れません・・・100年後の評価よりも今日のオマンマの方が大事という説にも説得力がありますがね。 モーツァルトがこれを作曲したのは32歳のときです。皆さん、32歳のときには何をしていたでしょう。そもそもこういう大天才と自分を比較するのが間違っているのですが、何と自分は何もしない人生を送ってきたのだろうと茫然自失としてしまいます。私は今52歳なのですが、最近のこの手のショックは、マーラーの人生の長さを超えてしまったことです。若いころ、アルマ・マーラーの「マーラー」を読んで、その激動の人生に驚嘆した、あのマーラーの人生を時間的には超えてしまったのです。ああ、なんとのほほんと過ごしてることか・・・。ちなみに私が32歳のとき、何をしていたかというと、日本フィルに入ってしまいました。 さて、この交響曲、どの楽章も素晴らしいのですが、やはり、第4楽章が白眉です。フーガという対位法の究極の形で書かれています。フーガというのは、日本語では「遁走曲」と言います。わかりやすく言うと、同じ旋律が追っかけっこして出てくる楽曲形式です。しかも三重フーガ(みえフーガじゃありません。さんじゅうフーガです)、運動場で3組が鬼ごっこをしているようなものです。
モーツァルトの弦楽四重奏曲の「ハイドンセット」の第1番(春)の第4楽章もフーガで出来ています。
ジュピター音型を全音分(半音2個)拡大したものが《春》のテーマになっていることがわかります。ただ、モーツァルトがこの関係を試行錯誤のうえで発見したとは思えません。突然頭の中に降りてきたのでしょう。 もう一つ、ジュピター音型に関する面白いお話です。ブラームスは4曲の交響曲を作りました。その調性を調べてみると、次のようになります。1番:ハ短調、2番:ニ長調、3番:ヘ長調、4番:ホ短調。ハ−ニ−ヘ−ホ(C−D−F−E)、即ちジュピター音型になるというのです。しかもブラームスは意図的にそうしていたというのですが、ホントですかね。最初から4曲しか書かないつもりだったのかなあ。。。俄かには信じられない話です。 少し視点を変えて、演奏者にとって、フーガというのはどうものなんでしょうか。今から書くことはあくまでも個人的な感想ですが、実はかなりの自信を持って、他の多くの演奏家も感じていることだと思っています。それは、「フーガの罠には気をつけろ」ということです。 そもそもアンサンブルの基本は何でしょうか。それは同じものを一緒に弾くということなのです。そしてこれが人間の素直で自然の欲求なのです。全員で同じ旋律を奏でる、または、ある声部が主旋律を受け持ち他の声部がその伴奏をする、どちらにしても素直な一体感があります。ところがフーガは対等な地位のものがずれて演奏されるのです。この「ずれて演奏する」ということが、どこか人間の本能と相容れないところがあるのです。たとえば《ジュピター》の第1楽章を心の中でカウントを取って弾くことはまずありませんが、4楽章のフーガの部分では必ずカウントを取ります。カウントを取らないと間違う可能性があるということ自体、どこか人間の本能に逆らっていることの証左だと思うのです。 フーガの入りの、特に2番目に入る時は気をつけないといけません。大体、2声目はテーマが5度上(4度下)で入ってきます。万が一、同時に入ってしまおうものなら、ドビュッシーもびっくり!古典和声が最も忌み嫌う連続5度の大出現です。 事故処理も大変です。音楽上の事故というのもいろいろあって、まあ、これだけで本が3冊は書けるでしょう。そのうちの一つ、落っこちてしまった場合。通常なら他の声部を聴いて、合っていそうなところで入れば良いのですが、なんせフーガは合っていると違っているという、難しい哲学をやっているようなものですから、もう大変!一度落ちたら復帰するのは至難の業なのです。 これは《ジュピター》には出てきませんが、フーガには主題の拡大、縮小という高等戦術があります。同じメロディが倍の長さ、或いは半分の長さで出現することがあります。フーガトラップに神経を消耗しているさなか、この戦術をやられると、頭がパニックに陥ります。自分の弾いているテンポがわからなくなり、この曲は何拍子だっけ・・・と反省すると、もう時は遅し、すでに敵の術中です。 ま、《ジュピター》は演奏家の皆さん、知り尽くしているのでそんな混乱は、まず起こりませんからご安心ください。バッハに《フーガの技法》という未完の大作があります。フーガトラップの集大成ともいうべき作品で、聴くには本当に素晴らしい作品なのですが、できれば人前では演奏したくない作品です。 第3楽章は、この未曽有の大傑作の前の小休止といった感があります。ものすごく単純で、最初私は、モーツァルトの冗談かと思ったほどです。ここにもジュピター音型が現れるをご存じですか?
第2楽章の良さを最近になって新たにわかってきたような気がします。もちろん、大変美しい作品だとはずっと以前から思っていましたし、今、私が感じている感じ方が、モーツァルトの意図したものであるかどうかはわかりません。最近この楽章を聴くと、何か胸がキュンとなるような幸福感を感じるのです。「胸がキュンとなる」と言っても、恋愛から生じる幸福感ではありません。普通に生活していて、たまたま何かとてもいいものを見つけた時に感じる気持ちとでも言ったら良いのでしょうか。普段の生活の中に転がっている何気ない幸せの発見といったようなものを感じます。 この楽章には、モーツァルトの音楽によく出てくる、しかもイマイチよくわからないfpの問題があります。
実際のスコアは2拍目以降、略号の が使われています。ですからfpがある拍は のように書かれています。fpは、普通は強く演奏したあと直ちに弱くするという意味ですが、ここでは最初の例、最初の16分音符にf、4個目の16分音符にpが記されているのと同じなのだろう、ということは容易に想像がつきます。問題はフォルテの3個の16分音符、これをどのように弾くのだろうということです。スコアの序文にはモーツァルトはこの3個の音符でデクレッシェンドを意図しているようだ、と書かれています。沼尻せんせはどのように解釈するのか、ちょっと興味があります。第1楽章、この天真爛漫な響きと堂々とした構成を前にして、私は何も書くことはありません。ただ、1楽章にのちのすべてのモチーフが含まれていることを指摘しておきたいと思います。これがほとんど苦もなく頭の中に完璧な音が降りてくるモーツァルトの天才の証明です。 第1主題は、ジュピター音型を予感させます。
第2楽章を予感させるパッセージ
第2主題の反行形が第3楽章の主題になります。
|