岸本 氏インタビュー 2002年(平成14年)12月27日(金) 新宿・京王プラザホテル・ティールーム 歌を習い始めた時は大変でした。 最初に習った先生は大阪の方でしたが、僕はF#やBbが取れなかったんです。半音階ができない。声は良いけれどこれじゃ無理だから止めなさい、と言われました。「天然記念物的音痴」と言われましたよ。でも努力して克服しまして、芸大に入学できました。これで歌手になるぞ! と思い入学しましたが、勿論そんな簡単な世界ではありませんね。苦労して入ったにもかかわらず、周りのレベルの高さと華やかさに、ここは僕のいる世界ではない、 と強い挫折感を味わって、歌を止めようと思って半年ほど故郷に帰りました。農業を手伝って、たんぼの風景の中で歌を歌っていまして、そんななかから、ロシア民謡って悲しい時、苦しい時を表現できるから、これを「自分の歌にしよう」と思いました。ロシア民謡には、ラジオや喫茶店で聴いたりして自然に耳に入っていったのですが、最初はこれが自分の表現手段になる、とは思いませんでした。田舎の夕焼けを見ながら「鐘」を歌ったり、汗を流してたんぼを耕しながら「えいこーら」と「ヴォルガの舟歌」を歌ったりしていましたが、それが自分の喜び、悲しみ、怒りを表現する手段と一致するとは思わなかったんです。しかし「土の匂いのするロシア民謡を人前で歌って良いんじゃないか。どうせ歌はやめるんだから、好きな分野を思いきりやろう」と決心して、初めてそれが、自分の生き方に 合った歌だと思えたのです。もう35年ほど前のことになります。芸大に復学しましたら、実は中退して止めようと思っていたもんですから、よく戻って来たね、ということで、歓迎してくれました。ロシア語を習う人はほかにいなかったし、「好きなようにやりなさい」、ということで、運が良かったのは、ロシア語の先生が一人、生徒が一人でして、一対一の授業ができました。先生が「お前、いったい何やりたいんだ」「実はロシアものをやりたい」とはっきり言いましてどんどんのめり込んでいった、という訳です。大学では当時はドイツやイタリアものが主流でして、ある大先生からは「ロシア音楽などは音楽とは言えない。あれは歌謡曲だよ」と言われたこともあります。これには腹が立ちましてねえ。ムソルグスキーにオペラ「ボリス・ゴドノフ」と言うのがありますが、その中に「ボリスの死」というのがありまして、当時行われた毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で僕もどうしてもその曲をやりたかった。中学3年の時、自分の親父が自分の目の前で死んで行く様を覚えておったものですから、ボリスの死を具体的に歌うことができました。それで毎日音楽コンクールで一等を取りました。それからはずっとロシアの歌とつきあってきました。後で知ったのですが、シャリアピンもまた田舎の土工の出で、旅回りをして苦労をし、そしてああいう大歌手になったんですね。苦労している時に自分の悲しみ、喜びを経験することでそれが自分の糧になっていった、ということなんです。だからシャリアピンの歌には人を感動させるものがあるのだと思います。
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