2.スメタナの書いた解説とその背景
『我が祖国』は1874〜1879年の間に書かれています。スメタナはその少し前から耳の病気に悩まされ始め、演奏活動から退いていました。若い頃にしっかりと作曲法を学び、ピアノの名手として長年活躍し、20年近く指揮活動をしてきた結果、楽譜や総譜を見ればその音が頭の中で鳴り、作曲するときもピアノはいらなかったといいます。豊富な音楽経験がスメタナの作曲家としての自信になり、耳が聞こえなくなっても作曲を続ける活力となったのです。
彼は聴力を失い、『我が祖国』を自分で指揮することはないかもしれない、という悲しい予測を立てていました。そのため、演奏家や聴衆に音楽の内容をよく理解してもらうための細かな解説を付け加えました。
I.ヴィシェフラド
ヴィシェフラドはチェコ語で「高い城」の意味。この城は10世紀後半に建てられたと考えられています。かつてプラハにはプラハ城とヴィシェフラドの2つの城があり、現存のプラハ城よりもヴィシェフラドの方が栄えていた時代があったようです。
ヴィシェフラドはフス戦争(1419〜1436)の時代に徹底的に破壊されました。ヴィシェフラドは時の皇帝ジクムントとカトリック派の軍隊の拠点要塞だったのです。対するフス教徒は1420年11月の戦闘でヴィシェフラドを陥落させ、そこにあった教会、礼拝堂、王宮、住居を破壊。これはチェコの歴史上最大規模の文化財破壊だったと言われています。
その後、ヴィシェフラドは復興されないまま、現在では城址公園となっています。
スメタナの書いた解説
ヴィシェフラド
伝説の吟遊詩人ルミールが、岩上の城ヴィシェフラドを眺めながら過去に思いを馳せている。
彼が奏でる竪琴の響きと共に、栄光の時代の王や騎士たちの祝宴の情景が浮かんでくる。ルミールは試合や戦闘についても歌う。
勝利の歌がこだました城は幾多の戦いで壊れ落ち、金色の広間も玉座も打ち砕かれた。
ヴィシェフラドは廃墟となり、何世紀もの間さびれた姿でたたずんできた。廃墟からは昔の歌がこだまし、ルミールの竪琴の音は風の中に消えてゆく。
II.ヴルタヴァ
ボヘミアを南北に縦断する大河ヴルタヴァ。ボヘミアの全ての水脈が流れ込み、大地に豊かな実りとこの上なく美しい景観をもたらしています。
1866年9月、42歳のスメタナは念願の仮劇場の首席指揮者に就任します。
翌年の8月の終わり、仮劇場オーケストラのヴァイオリン奏者モジツ・アンゲル(1844〜1905)の招きで、彼の両親が住む南ボヘミアのヘルシュテインまで旅をしました。アンゲルの案内で、スメタナはヴルタヴァ川の源流である二つの川、ヴィドラ川とクシュメルナー川が合流する辺りまで遠出しました。そこはプラハの南100キロほどの森林地帯でした。景色はうっとりするほど美しく、全て自然の音で満ちていました。スメタナは川のほとりに座り込んで、長い時間せせらぎに耳を傾けていました。二つの密かな川音は二つの詩的な調べ。
―――これ以上美しい音楽があるだろうか!
この遠出の時に、「ヴルタヴァ」の構想を得たのです。
しかし実際に作曲にとりかかかったのはこの時から7年後、1874年のことでした。
スメタナの書いた解説
ヴルタヴァ
曲はヴルタヴァの最初の小さな流れ、冷たく、そして暖かい源流から始まる。二つの流れはひとつになり、岩に当たって清々しい水音を立てながら、陽の光を受けてしだいに川幅を増してゆく。川は狩人の角笛が響く森をぬけ、収穫祭(又は村の婚礼)が行われている田園を流れてゆく。夜には月明かりを浴びた川で、水の精たちが踊る。朝になって流れは速さを増し、聖ヤン(ヨハネ)の急流にしぶきをあげて流れ落ちる。川幅を増して大河となったヴルタヴァは、古く尊いヴィシェフラドに挨拶を送りながら、ゆったりとプラハに流れ込み、ついには壮大なエルベ川へと流れ去ってゆく。
III.シャルカ
「シャルカ」とはプラハの北の方にある谷の名。14世紀はじめに伝えられる少女シャルカの伝説を基にしています。
スメタナの書いた解説
シャルカ
この曲はシャルカ谷に伝わる女戦士シャルカの物語を描いたものである。
始めに、恋する男に裏切られたシャルカの怒り、屈辱、激怒、復讐の誓いが語られる。
騎士ツチラートと部下の戦士の一団が、女戦士団をこらしめるために森に入ってきた。武器を持ち行進する音が聞こえてくる。
計略を考えたシャルカは部下に命じて自分を木に縛りつけさせ、か弱い声で助けを求める。シャルカを見たツチラートは彼女の美しさに心を奪われ、その場で恋に落ちた。彼はシャルカを自分の城に連れ帰り、盛大な宴を開く。
シャルカは用意していた薬入りの酒で男たちを酔わせ、彼らは全員眠りこんでしまう。
シャルカは外で待機する女戦士軍に、角笛の合図を送る。遠くからこたえる角笛。
女戦士軍は城になだれこみ、眠る男たちに襲いかかってみな殺しにする。シャルカも自分の剣で騎士を刺す。復讐を果たしたシャルカの、勝利のおたけび。
IV.ボヘミアの森と草原から
聴力を失い、プラハでの要職を退いたスメタナは1875年7月、娘夫婦が暮らすヤプニツェ村に移りました。
プラハの北東約60キロにあるその山村には森があり、木や花の香りに満ち、自然がいかに人を幸せにするかを教えてくれるかのような土地でした。
スメタナはこの村を非常に気に入り、ゆっくり養生しながらこの土地の自然を音楽で讃えました。
スメタナの書いた解説
ボヘミアの森と草原から
これは私がボヘミアの田園風景を眺めた時、心に呼び起こされる全ての感情を音で表現した曲である。木立、牧場、森、肥沃な大地、だれもがこれを聴く時、私が何を描いたのか分かってくれるだろう。
V.ターボル
ターボルはプラハの南約80キロに位置する町の名。一方を谷、一方を湖に囲まれた丘の上の町です。
1419〜1436年「フス宗教戦争」の時代、この地にフス教徒(フス団ともいう)が城塞を築きました。この戦争は、カトリック教会の聖職者たちの堕落と腐敗を告発した、カレル大学総長で司祭ヤン・フス(1371頃〜1415)を、ローマ教皇が火刑に処した事から起こりました。教皇側はフスの宗教改革運動を受け継ぐフス教徒を退治せんと、六度にわたり十字軍をボヘミアに送り込みました。フス教徒はこれをことごとく撃退して「新教」を守りました。
この間ターボルには片眼の老将軍ヤン・ジシカ(1370頃〜1424)率いる「ターボル派」が立てこもり、彼らの勇猛さは敵味方の双方に知れわたったと伝えられています。
スメタナの書いた解説
ターボル 〜モットー:汝ら神の戦士〜
フス団の賛美歌「汝ら神の戦士」がターボルの町で歌われ、キリスト教徒全員の頭上に響く。賛美歌は戦いにおもむくターボル派の人々を勇気づけ、戦いの神聖さを断固確信させた。戦闘のさなかにも賛美歌は聞こえ、信仰を裏切るよりは死を選ぶターボル派の激しさに、敵は恐怖に陥った。
VI.ブラニーク
チェコの人々に「聖なる山」と呼ばれるブラニークは、深い森に覆われたなだらかな山です。スメタナ一家が一時期住んでいたルシコヴェ・ルホティツェの近くにあって、スメタナ少年は夏休みで家に帰る時に必ずと言っていいほどこの山を見ていました。
スメタナの書いた解説
ブラニーク
<ブラニーク>は<ターボル>のつづきとなる曲である。
フス団の戦士たちは戦いを終えたのちブラニーク山に隠れ、国を救う時が来るのを待って眠っている。曲はフス団の賛美歌「汝ら神の戦士」で始まり、小さな間奏曲としてブラニークの周りの風景の描写や羊飼いの少年が奏でる牧歌をはさんで、敵の来襲、新たな賛美歌「汝ら神と共に勝利を収めん」がつづく。最後に<ヴィシェフラド>のテーマがチェコ民族の復興と未来の栄光を讃え、<我が祖国>の全曲は終わりを迎える。